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忠臣蔵に学ぶ
目的を成し遂げるために
1702(元禄15)年の今日12月14日
赤穂浪士47人が本所の吉良邸に討ち入りし、主君の仇討ちを成し遂げた日
すなわち、「四十七士討ち入りの日」なのである。
そこで今日は、忠臣蔵に学んでみたい。
年末になると必ずテレビで忠臣蔵が放映されている。
私には美化されすぎているように思えてならない。
そもそも忠臣蔵とは、復讐劇なのである。
現代では完全に悪役になってしまった吉良上野介も、実は名士であり、名古屋では良き殿様として愛されている。
捉え方しだいだが、赤穂浪士が全面的に賞賛される話ではないことを理解して欲しい。
諸説あるが、事の発端は喧嘩両成敗の時代にあって、浅野の殿様は切腹、赤穂の城は没収、家臣は失職離散。
一方で、吉良上野介はあくまでもお咎め無し。
片手落ちだと仇討ちに発展したのだが、討ち入りまで実に1年と9ヶ月を要したのだ。
内匠頭が上野介を斬りつけた事件の話は江戸の町人にまで知れ渡り、吉良方、そして幕府も、赤穂浪士がいつ討ち入るかと目を光らせている厳しい状況下での1年9ヶ月なのである。
それには内蔵助が秘密裏に計画を推し進めた背景がある。
「水面下で爪を研ぐ」ということだ。
つまり、討ち入りまでの1年9ヶ月、ありとあらゆる屈辱や非難にも堪え、それでもなお秘密裏に仇討ちの計画を立てたのだ。
大石内蔵助にいたっては、昼行灯(ひるあんどん:役にたたない人という意味)とまで馬鹿にされていたにも関わらず、着実に水面下で仇討ちに向け爪を研いでいたことになる。
復讐は賞賛できる行為ではないのだが、
亡き主君の汚名をはらすために、何を言われようが、準備が整う1年9ヶ月の間、努力を重ねたことになる。
見習うべきはこの点だ。
人に何を言われようが、己の信じた道をひたすら歩み続ける姿勢こそ現代の人々が継承するべきことなのである。
目的を果たすためには、ときに鬼となり、味方にさえも手の内を明かしてはいけない。
万難を排し無謀ともいわれた仇討ちを成し遂げた内蔵助に、学ぶところは少なくないのである。
ちなみに、忠臣蔵を読み進めると分かることだが、赤穂浪士は吉良上野介が憎かったワケではない。
喧嘩両成敗の江戸時代にあって、その慣習を無視し、斬りつけた浅野内匠頭を調べもせずに即切腹を命じた幕府に対しての報復という意味あいが強かったのだ。
現代と違い、士農工商穢多非人という上下関係があった時代において幕府に楯突くなど笑止千万。
しかし、元禄の時代に常識を覆すような事件がこの忠臣蔵なのである。
ここまでの補足として、
赤穂浪士は自分の主君長矩に対しては忠義を果たしたワケだが、しかし、侍は主君への忠義を通して幕府への忠誠を求められている。
江戸の町で許可なく兵を動かし私闘を演じた赤穂浪士の行動は幕府に対しては不忠義である。
したがって本来なら、打ち首獄門という最悪の厳罰が下されても仕方がない。
しかし、幕府は名誉ある切腹と いう結論を下した。
これは当時の江戸幕府のバランス感覚ではギリギリの妥協だったのだろう。
この点においても、当時の常識を覆すことができたワケなのだ。
ちなみに、
吉良家は、討ち入りに参加した赤穂浪士よりはるかに多い侍を擁していながら、主君吉良上野之介義央を殺害されており、武士としての本分を果たさなかったとして結局取り潰しになっている。
最後に
現代では、
「会社が悪いから」
「社会が悪いから」
「世の中が悪いから」
など、他人に責任転嫁するような思考が蔓延しているように感じてしまう。
責任転嫁しているようでは大義は果たせない。
昨日もお伝えしたことだが、常識は常識にあらず
全ては己が選択している道なのだ。
常識を覆すことができるのは、信念あってこその話。
周りに何を言われようが、己の信じた道をひたすら歩み続けたいものだ。
水面下で爪を研ぎながら
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